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年齢と共に変わる「ギター観」

あっという間に孔子の言う「不惑」の歳を過ぎました。まだまだ惑ってばかりで、ギターに対する考え方も若い頃から変わってきています。皆さんはどのようなギター観をお持ちでしょうか?何の役にも立たないかもしれませんが、今回は田舎出身のいちギタリストの、ギター観の変化を書いてみたいと思います。

プロになる?

 

若い頃になりがちな「プロになる」病に、私も微熱程度ですが罹っていました。

 

そもそもプロの定義って何なん?という話もありますが、まあ好きなことで食べていきたいという程度の、淡い希望だったと思います。

 

今から考えたら、そうなるための戦略もなければ行動もしていなかったので、結果は見えているはずなんですが・・。

 

 

本当にギターや音楽に情熱を燃やす人も多いと思いますが、この「プロになる」という言葉は(私のように)逃げのために使われることも多いように思います。

 

勉強したくないし働きたくない・・でも何もしないとカッコ悪いので「プロになる」と思い始め、自分を安定させるような感じですね。。

 

しかし「プロになる」には、普通に学校を出て働く以上のことをしていかないとダメなので、この時点でもう自己矛盾してしまっています。

 

 

 

スポーツ選手などが急にプロに転向するようなことがあるので、ポンとなれるようなものと勘違いしてしまう所もあるかもしれません。

 

しかしスポーツでは、人生を掛けてその競技に打ち込んできた人が、大人の事情で制度上プロになるという流れです。

 

くじに当たったからなれる訳ではないのに、そのくじがあると自己暗示をかけているような状態だったのかもしれません。

 

 

 

今の考え方はどうかというと、プロでもアマチュアでも、本人が良ければどっちでもいいのではないかと考えています。

 

もちろん白か黒かの2択ではなく間に様々な状態がありますが、好きな色合いの所にいられればOKなのではないでしょうか。

 

アマチュアだと自分の好きな音楽を好きなようにやれるので、むしろこっちの方が幸せかもしれません。。

頭の中の音を弾く?

 

若い頃はギタープレイ、特にアドリブに対して幻想的な考えを持っていました。

 

どんなに複雑なコード進行でも頭の中に次々とフレーズが浮かんでくるので、それをギターで具現化する。

 

一流のギタリストになると、そんな状態で弾いていると思っていたんです。

 

 

 

自分も真似して同じ流れをやってみようとするのですが、まず頭の中に何の音も浮かびません・・。

 

シンプルな曲でも、聴いている方が恥ずかしくなるようなフレーズしか出てこない状態です。

 

まだ何の準備もしていないのに、偶然良いものが出てくるのを待つスタンスなので、これではうまくいくわけがありません。

 

当時は頭で鳴っているフレーズを弾くこと以外はアドリブでないと思っていましたが、今では最終的に出たフレーズが良ければ、そこに至る過程は何でも良いと思えるようになってきました。

 

手グセのフレーズを弾いても良し、テーマのメロディーをモチーフとして変化させても良し、準備しておいたとっておきのフレーズをはめ込んでも良し、偶発的な効果を狙っても良し・・。

 

様々な面からアプローチできるように準備しておき、その場の状況に合わせて出せるようにするという、アドリブの練習にきちんと取り組むようになった感じです。

 

 

 

若い頃のアドリブ観は崇高に聞こえますが、今考えると「逃げ」の部分もあった思います。

 

その曲を分析したり、名演を聴いて勉強したり、何が出来るかを試したり、といったことから、聞こえの良いことを言って逃げていた節があります。

 

とはいえその姿勢も無駄だった訳ではなく、壁にぶち当たって他の方法を探さないといけないと気付けたのは、大きな収穫だったとも考えられますが・・。

失敗するならやらない?

 

若い頃に見た教則ビデオで、ミスタッチの多いインストラクターがいました。

 

その人は別にギターが下手な訳ではなく、こんな感じに弾くこともできますね、という風に自由に弾くためのアイデアや考え方をレクチャーしてくれてたんです。

 

本当にその場で自由に弾いているので、予期せぬミスタッチが起こることもあります(逆に信ぴょう性が高いですね)。

 

しかし当時の自分は、ミスするくらいならやらなきゃいいのに・・と思っていました。

 

 

 

まだギター歴が浅いうちは、そういうちょっとしたことに目くじらをたてがちです。

 

もちろん、なるべくミスしないように対策を考えて練習をするのは大事だと思います。

 

しかし、それすらできていないことを隠すために、先に進んでいる人のことをとやかく言っていたのではないでしょうか。

 

 

 

同様に、飽きたり挫折したりするなら、始めからチャレンジしない方がいいのに・・という考え方もありました。

 

例えば、まだやったトライしたことのないジャンルや奏法、アレンジの仕方、作曲の方法などについて、何かと理由を付けてやらない方向に持っていく感じです。

 

こういったネガティブな思考は、もしかしたら心に余裕がなかったことの表れかもしれません。

 

 

 

今では、ちょっとでも気になったことは、なるべく自分でやってみることにしています(一歩踏み出せないことも多いですが・・)。

 

実際にやってみると、思ったよりもうまくいくこともあれば、全然基礎が足りずにできなかったり、すぐに飽きてやめてしまうこともあります。

 

どう転ぶかが予想できないことも多いですが、結果を受けてまた前に進めるので、やってみない選択肢はないと思えるようになりました。

ギターだけやってればいい?

 

若い頃は、専門のことだけをひたすらやっていれば、良い結果が出ると思っていました。

 

これはギターもそうですが、勉強や仕事の専門分野についても同じです。

 

例えば、大学では専門科目以外に一般教養の授業を受けて単位を取らないといけなかったのですが、なぜ関係のないことに時間を使わないといけないのか疑問でした。

 

 

 

今では逆に、専門と関係のないことでも、体験したり本を読んだりする機会を増やすように心掛けています。

 

もちろん専門分野はしっかりと精進しているつもりですが、それだけではその分野の凄い人にはかないません・・。

 

色々なことを学んで実践して、総合的に評価される(例えば仕事がもらえる)ようになれれば良いなと思っています。

 

もしかしたら、他にも興味が出てきて究めたいと思うことが見つかるかもしれませんし、専門分野と他の分野が繋がって新しいものが生まれるかもしれません!

 

 

 

ギターだけやるということは、ギター以外のことをおざなりにしているということです。

 

丈夫じゃない骨格の上にギターが載っているような状態なので、もの凄く不安定ではないでしょうか。

 

例えギターから離れてもしっかりと歩いて行けるように、頑張っていきたいなと最近は思っています。

 

 

 

以上、年齢と共に変わってきたギター観をご紹介しました。

 

全部で4項目ありましたが、すべてに共通していたのは一見(一聴)しただけでは志が高いように感じる考え方も、裏では逃げのための言い訳に使っていたり、小さな自分を隠すような考え方だったということです。

 

その逃げのギター観が変わってきたということは、年齢を重ねることで少しは惑わずに、現実と向き合えるようになってきたのかもしれません・・。

 

 

 

今回は20歳から40才くらいにかけてのギター観の変化ですが、60歳になるとさらに変化があるんでしょうか?

 

そういえば60歳は、孔子の言う耳順です。

 

字の通り、音楽にも素直に耳を傾けることができるようになるんでしょうか・・?

 

それまでこのブログが続いていたら、綴ってみるのも面白いかもしれません。

 

すでに60歳を過ぎた先輩方、若くして達観したギター観をお持ちの方は、ニヤニヤしながら見守って頂ければ幸いです。

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